詠春拳研究公開日誌

体験談や見聞録から推察していく詠春拳

近況

コロナの影響で数カ月詠春から遠ざかり、それの無い生活になれ始めた自分を戒めるために、少しの鍛錬をした。

 

不思議と体が教えてくれる。

1つ運動をすれば

1つ休めば体の緊張や呼吸から

 

振動や可動域、硬直収縮。

体は脳で理解するより1つも2つも先に情報をくれる。

 

詠春拳は頭で考えるのではなく、セルフコントロール等の内面の情報処理能力に特化している節がある。

 

これは残念ながら人からは習えない。

高僧にご講説頂こうが、経験体験がもたらす知覚により意識レベルの差異、性格も加味したそれらが、

価値観とイメージの相違をもたらす。

 

詠春拳も実際そんな感覚なのだろう。

いくら技や運動を学ぼうが、拳理や思想までは意識レベルの違いで入ってこないのであろう。

 

非常に禅的な話ではあるが、自分で自分を解かろうとしないのに他人を接触で解かろうなんて。

おこがましいのだ。

極論他人が解ってしまえば、詠春拳なんていらない。

予知と予感だけで戦えばいい。

詠春拳でも予知に近い定石の接触や感覚を学ぶが、それだけでは不確定要素があるから、力や術や技がある。

それら技術や力を効率よく使うための思想でもあり拳理であるのではないのか?

 

運動だけ教えてもらっても、詠春拳にならない理屈がある。

詠春拳が求める運動とは人間本来の可動域とはまた違う。

楽とは程遠いキツい粘り気のある運動の最中頭が冷静にならないといけない。

 

頭がついてこないと、非効率な運動を反復するだけになる。

非効率な運動をしてしまうと、感覚も育たないし技からも遠ざかる。

 

技から遠ざかると、詠春拳って実は使えないだの何かと組み合わせて戦うだの尾の生えた欺瞞だらけの話になってくる。

 

まさに堂々巡り。

心技体はスパイラルである。