詠春拳研究公開日誌

体験談や見聞録から推察していく詠春拳

詠春拳の練習で

一番大事な事。

人によって違うので千差万別であるのだが、

私見を言えば

それは厳しい練習量ではない。

人格が優れ、弟子に慕われる先生を師事できた事なんかでも無い。

道場や道具の環境、人間関係なんて、詠春拳に置いてはカスみたいなファクターである。

 

要は自分がしたい詠春拳もしくは、それに近い詠春拳を先生がしっかりしているかどうか。

それと師匠と弟子、二人が考える詠春拳がシンクロしているかどうか。

先ずはこの2つである。

 

 

しかしながら詠春拳にも色んな敷居がある。

映画のサークルのノリが欲しい人や、

他の違う武術に詠春拳のエッセンスを組み込みたい人。

ナンパやストーカーを蹴散らし逃げたい女性だっている。

一律に言うのは難しいではあるが

きっかけは誰でも似たようなものではある。

それは兎も角、信じやすい人、人を悪く言えない人は本質から遠ざかった答えを導きやすい。

 

こんなにいい先生の詠春拳が偽物のはずはない。

せっかく教えてくれて自分の頑張りを褒めてくれて、この詠春拳で良かったと思う。

 

末期のがん患者は担当医の人間性の良し悪しで病院を決めているのか?

病状、それに対しての治療と結果が第一ではないのか?

 

 

自分の思ってる詠春拳と違ってるけど、やってみないと解らない、やる価値はやらないと解らない。

 

と考えてる時点で、詠春拳では出鼻をくじかれる。

体は癖がつく。形状記憶合金のように。

経験はプラスどころかマイナスになることだってある。

 

やって良いか悪いかはやってみないと解らないが、100%いいなんて絶対ありえない。

逆もしかり。

時間とお金の無駄も考えられる。

充実と仲間はどの趣味にだってある。

 

末期のがん患者でも実は同じで、いつだって体内の癌そのものの根絶を願っている。

経過観察なんてクソ喰らえのはずである。

現実それが無理と言い聞かされて

更にそう自分にいいきかせてしまってるから、そうなだけである。

治らなくていいと答える人は置いといて、

完治したい人間が治療費が今と同じで治りますよと言われるとどうだろうか。

 

詠春拳も心境は同じだと思う。

自分のしたいイメージ像の詠春拳はどこかに絶対ある。

是非とも妥協しないで欲しい。